必要とされている感、貢献感

社会設計するとき、恐らくこれは大切だな、と思う要素がある。「自分はここにいていいんだ、生きていていいんだ、生まれてきてよかったんだ」と思えること。これを自己肯定感と表現する人がいそうだけれど、ちょっと違う。必要とされている感、あるいは貢献感と呼んだ方が良いかもしれない。

「お前の代わりなんかいくらでもいるんだよ」と言われることは、必要とされている感、貢献感を根底から打ち砕かれる。仮に幼少期から自己肯定感が得られるように育てられても、一瞬でその自信や肯定感は崩壊してしまうだろう。人間は、家族ではない第三者から必要とされている感がどうやら重要。

マンガ「3月のライオン」で、女の子がいじめられている子をかばったために、今度は自分がクラス全員からシカトを受け、嘲笑を受け、孤立するシーンが描かれている。その女の子は、自己肯定感を言うなら、これほど強い自己肯定感が育った子もいないだろう、という性質。それでも耐え難いほどつらい。

派遣社員や契約社員という制度は、必要とされている感、貢献感を味わいにくいものにしている。要らなくなればすぐに首を切られるとなると、そうした感覚は保ちにくくなる。それが精神的不安定をもたらす大きな原因のように思う。

ベーシックインカム(BI)も、やりようによっては必要とされている感、貢献感を破壊する方向に働く恐れがある。特に竹中平蔵氏が提案したBIは、「金を渡すからグダグダ言うな」と、社会から切り離すような裏メッセージを発しがち。これでは、必要とされている感を完全消去される恐れ。

女性宇宙飛行士の山崎さんの夫は、妻を応援すべく、自分が家庭に入って専業主夫になった。そのとき、無重力空間に放り出されたような、つかみどころのない不安を覚えたという。名前で呼んでもらえず、「○○ちゃんのお父さん」「山崎さんの旦那さん」と。社会とのつながりが断ち切られたようで。

YouMeさんが専業主婦になることに決まってしばらく、私はYouMeさんに否定的なことを言った。しばらくしてからYouMeさんは私に説明してくれた。「いま、私はあなたを通じてしか社会とつながっていない。名前を呼ばれるときも篠原さんの奥さんとしか呼ばれない。社会との直接のつながりがない」

「そんな状態で否定的なことを言われると、社会全体から否定されたように感じるの」
私にわかるように説明してくれ、私はひどく申し訳なく思い、その場で謝罪した。そうか、専業主婦になると必要とされている感、貢献感を感じにくくなるんだな、と。

私は高校を卒業して浪人状態になった時、言い知れぬ不安に襲われた。「いま何か事故や事件が起きたら『無職』って呼ばれるんだな」と。学生の間はこれからの可能性を期待してもらえる。けれど、浪人の間は社会の役に立っていない存在、必要とされていない存在なのでは、と不安に駆られた。

「あなたがいてくれて助かった」「あなたがいないと困るよ」と言われれば、必要とされている感、貢献感がとても強まり、「ここにいていいんだ、生きていていいんだ、生まれてきてよかったんだ」と思える。そう信じられる。しかしそうした場がない場合、人間は不安になる。

もしかしたら、富裕層の少なからずもこの、必要とされている感、貢献感が味わえないためにお金の力にしがみついているのかもしれない。「私はマネーリテラシーを身に着けるべく勉強した、だからお金持ちになれた、貧乏人は努力不足、お金がないなら投資すればいいのに、そのために勉強したらいいのに」

私が思うに、投資は潤滑油であり、労働は歯車ではないか。潤滑油がなければ歯車はきしみ、うまく動かない。しかし潤滑油だけがあって歯車がないなら機械として機能しない。歯車も潤滑油もどちらも必要なように、投資も労働もどちらも存在して初めて社会は機能する。

なのに投資家は労働者を見下し、投資を学ばない不勉強者、と罵ることが少なくない。しかし、誰かを見下さずにはいられないということは、必要とされている感、貢献感を、お金以外の方法で手に入れる手段を持っていないために、そうした論理にしがみつき、代償行為で満足しようとしているのかも。

共産主義国が崩壊したのも、この必要とされている感、貢献感をおろそかにしたためだと私は思う。頑張った人も怠けた人も同じ給料、昨日と同じ日々が今日も明日も未来永劫続く、と感じれば、貢献感など得られるはずがない。自分がいなくても同じことが繰り返されるなら、必要とされている感もない。

指示待ち人間というのも、この必要とされている感、貢献感の喪失から生まれるもののように思う。上司がやたらと指示を出し、ダメ出しする人だと、「どうせ自分で工夫しても否定するんだろ」と感じる。そうすると自分で考えるのをやめ、言われた通りに、言われた時だけ動くようになる。

私は学生やスタッフを最初に指導する際、必要とされている感、貢献感といった感覚よりもっと原初的な感覚、「能動感」が得られるように気を付けている。現代の日本では、多くの学生やスタッフが、学校や職場で、能動的に動いたことを否定され、能動的に動くことを怖がっている。

私は「これ、どうしたらいいと思います?」と尋ねる。すると「わかりません」という答えが大概返ってくる。「じゃあ、これがどうなっているか一緒に見ていきましょうか。ここ、どうなっていますかね?」と尋ねると、一緒になって観察し、「こうなっていますかね」と恐る恐る答えてくれる。

私はそうして、能動的に答えてくれたことに軽く驚き、嬉しそうな顔をする。すると、聞かれたことに答えても否定される心配はないらしい、と安心して、次第にどんどん観察し、気づいたことを述べてくれるようになる。私は「あ、それは気づきませんでしたねえ」と驚くと、もっと見つけようと頑張り出す。

そうして能動的に動き出し、能動性が出てきたら、自然と、私が指し示しもしないのに自発的な動きが出てくる。自発性が出れば、私の気づかなかったことにも気づき始める。私がそれに驚き、面白がると、「篠原が気づかなかったことを指摘することができた」と嬉しくなり、もっと意見を述べてくれる。

私はどんどん「ここは?」「この場合は?」と着眼点を示しては観察結果と考えを聞き、必要な情報が出そろったところで「ではどうしたらいいと思いますか?」と尋ねると、答えはおのずと妥当なものになる。私は「いいと思います。それでやってみてもらえますか」とゴーサインを出す。

すると、私が着眼点を示し、質問を重ねたとはいえ、自分で観察し、自分で情報を収集し、自分で仮説を立て、どうしたらよいかまでプランニングした仕事だから、やってみたくなっている。能動感が強まっている。しかも、私がそのアイディアを必要としていることが分かるから。

必要とされている感、貢献感を味わうことができる。私はだから、質問を重ね、意見を言ってもらい、ゴーサインを出して、出てきた結果に驚き、面白がる。それを繰り返すだけ。すると、ますます能動的になり、必要とされている感、貢献感も味わえるらしい。勝手に仕事を片付けるようになってくれる。

部下にあれこれ指示を出し過ぎる上司は、こうはいかない様子。部下は必要とされている感、貢献感を味わえない。むしろ上司の方が「俺がいないとダメな奴ら」と考え、必要とされている感、貢献感を味わっている。実は部下の方は、上司がそう感じて満足するよう、演じているのだが。

私は、人の上に立つ上司の立場や、親の立場になったら、必要とされている感、貢献感を部下や子どもに味わわせるのが仕事だと考えている。そのためには上司や親は、自らが「虚」となり、部下や子どもにその空虚を埋めてもらうようにするのが大切だと思う。

「朝イチ」という番組で、興味深い実験が行われた。いくら「道路に出ちゃダメ!」と叱っても道路に飛び出してしまう子どもたちで困っている親御さんたち。そこで子どもに、一つお願いをした。「これからお母さんは目隠しします。君が道路の向こうまで、お母さんを安全に渡らせてあげて下さい」

するとこれまで左右など確認せずに飛び出していた子どもたちが、横断歩道の手前で何度も何度も左右を見て車が来ないことを確認し、母親の手を引いて道路を渡った。その表情はどの子も、真剣そのもの。親御さんたちはみな驚いていた。言っても聞かない子が、こんなにもきちんとできるなんて!

恐らくこれは、親御さんが能動感を奪っていたのが原因だろう。子どもが道路に近づく前に先回りして注意すると、子どもは「親が左右を確認してくれているからいいや」と、左右確認の作業を親にアウトソーシング(外部委託)していたのだろう。

けれど、親は目隠しされて先回りすることは不可能、左右を確認できるのは自分だけ、親の命は自分にかかっている、とわかったとき、子どもは真剣に、自分にできる最大限のことをしようとする。必要とされ、自分の貢献が求められる時、子どもは最大限の能力を振り絞ろうとする。

「アルプスの少女」ハイジは、ペーターのおばあさんが歯が悪いことを知り、柔らかい白パンを食べさせてやりたいと思う。目が見えないおばあさんのために文字を覚え、本を朗読してやりたいと思う。必要とされている感、貢献感を味わえることを、ハイジはとても楽しんでいる。

必要とされている感、貢献感を味わえた時、とても嬉しくなる。なぜか。「ここにいていいんだ、生きていていいんだ、生まれてきてよかったんだ」と自分を肯定できるから。だから、してもらった側は、一方的にしてもらっているわけではない。驚き、感謝することでその感覚を提供しているともいえる。

必要とされている感、貢献感の心地よさを知った人は、もっと人に喜んでもらおうと工夫を考えるようになる。それは社会にイノベーションを生み出す大きな力になるように思う。必要とされている感、貢献感を味わえる環境が、イノベーションを生み、変化に適応できる組織の力になるように思う。

劉邦はそうした「場」を作るのが大変うまかったらしい。劉邦軍は決して強くなく、むしろ負けてばかり。劉邦自体も粗野で無礼、武芸に優れているわけでもなく、知略があったわけでもない。しかし不思議と劉邦の周りには人が集まった。なぜか。

部下の工夫、能力に驚き、面白がり、喜んだから。部下は劉邦を再び驚かせようともくろみ、さらなる工夫、貢献をしようとする。だからこそ、千変万化する戦場でも劉邦のそばを離れようとせず、組織全体が変化に適応していけたのだろう。

劉邦が部下の貢献感を提供するのに卓抜していたことを象徴するエピソードがある。中国全土統一に成功し、功績第一の人間を決めようとする場で、劉邦が勲功第一に選んだのは、一度も戦場に出たことがなく、後方で物資の事務を担当していた蕭何(しょうか)。

劉邦を助けるために命を懸けた部下は何人もいたのに、一度も戦場で危険な目に遭ったことのない蕭何が、なぜ勲功第一に?そんな疑問が湧いている中、劉邦が理由を述べた。「俺たちのメシは誰が送ってくれていた?」

劉邦軍は負け戦がやたら多かったのに、不思議な復活を何度も遂げていた。それが可能だったのは、蕭何がどこからか食料や武器を調達し、劉邦軍が決して飢えないようにしていたから。劉邦軍にいれば飯が食える、それが劉邦軍の不思議な強さの源泉だった。

物資担当という、非常に目立たない仕事を黙々とこなす蕭何が、劉邦軍の強さの源泉であることを劉邦は見抜いていた。そしてそのことを高く評価していた。こんな、縁の下の力持ちみたいな目立たない仕事にも目を向け、感謝する劉邦だったからこそ、蕭何も必死に努力したのだろう。

組織が強くなり、国が強くなるのはどんなときか。その組織から自分は必要とされていると感じること、そして組織に貢献できていると感じること。それが多くの人にいきわたった時、その組織はどんな変化にも適応し、乗り越えるダイナミズムを発揮するように思う。

組織や社会、国家を設計する場合、必要とされている感、貢献感をいかに提供できるシステムを構築するか。これは非常に重要な視点だと思う。お金はとても大切だけど、この二つの感覚が欠落していると、人間は、たとえお金があっても組織はバラバラになり、機能不全に陥るように思う。

マンガ「ワンピース」のリーダー、ルフィが様々な個性の人間を束ねることができるのは、「これは自分にできねえ」という、自分の欠落をあっさり認め、メンバーがそれを補ってくれることに素直に驚き、面白がるからだろう。だから集団が一つの生き物のようにダイナミズムを獲得するのだろう。

日本はかなり長い間、この「必要とされている感」、「貢献感」をないがしろにし過ぎてきたのではないか。それが日本のダイナミズムを失わせたのではないか。社会設計をする場合、この二つの感覚をいかに取り込むのか。みんなで一緒に考えていけたらなあ、と思う。

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